令和という新時代を迎えた今、幕末に未来を切り拓こうした新選組局長「近藤勇」の魅力を想う
「新選組」の真実
そんな文久3年の7月に近藤は、外国船が大坂湾に進入し、その機に乗じて「賊兵(ぞくへい)」が大坂城を急襲して近辺に放火でもされたら、大坂城は奪われてしまうと主張したのだ。京都に入る食料の「七・八分」は大坂から入っており、しかも、この時期の大坂には、脱藩浪士たちが大勢滞留していることを、近藤は鋭く指摘している。もし外国との交戦と同時に浪士たちが蜂起して天皇を奪えば、日本の滅亡に直結する。
新選組は、近藤が建白書を提出した翌月に起こった「八月十八日の政変」(孝明天皇・会津藩・薩摩藩などが中心となって、朝廷から尊皇攘夷派の公家や長州藩を追放)を契機に、京都の市中取り締まりを任されることになる。通常イメージされる新選組の姿は、この取り締まりの時のものである。しかし、近藤にとって京都の市中取り締まりは、彼自身の構想のなかの一部に過ぎない。大切なのは、当時、京都が直面していた日本の滅亡に直結するような危機が起きないようにすることである。それを防ぐ方法は、幕府による攘夷の実行である。
だが、黒船に象徴される欧米列強の圧倒的な武力を前に、攘夷はすぐに実行できるものではない。近藤はこれについては忸怩(じくじ)たる思いがあったが、日本最大の軍事組である幕府を抜きにした攘夷の実行は不可能である。このことは当時の常識に属する事実なのに、攘夷の実行を幕府に無理矢理迫る政治勢力があった。それが長州藩と、そのシンパである。
近藤の目には、長州藩とそのシンパが攘夷を権力闘争の道具に利用しようとしている姿が透けて見えた。これでは攘夷という美名を藉か りた、私的な政治的野望の実現でしかない。
こう考えた近藤は、このような勢力を殺さ つ戮りくしなければ、いくら「公武合体(こうぶがったい)」を唱えてみても、真の朝廷と幕府の合体はならず、従って攘夷は実行できず、未来は切り拓けない。
そこで、このような「賊」を討つために、厳格な市中取り締まりを行うことを実践した。
このように近藤は、幕末の複雑な政治空間を論理的に把握し、新選組という有志集団の長という自己の立場を踏まえて、合理的かつ理知的な判断のもとで、新選組という組織を運営した。
〈参考文献〉「尽忠報国之士近藤性より之来翰写」(『武相自由民権史料集』第一巻、町田市立自由民権資料館、二〇〇七)
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KEYWORDS:
『明治維新に不都合な「新選組」の真実』
吉岡 孝 (著)
土方歳三戦没150年……
新選組は「賊軍」「敗者」となり、その本当の姿は葬られてきたが「剣豪集団」ではなく、近代戦を闘えるインテリジェンスを持った「武装銃兵」部隊だった!
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◆長州&土佐は上洛直後の新選組のスカウトに動いた
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―――――そう語ったと読み取れる土方歳三の言葉とは!?
◆新選組の組織と理念は、本当は芹沢鴨が作った?
◆近藤勇より格上の天然理心流師範が多摩に実在!
◆新選組は幕末アウトロー界の頂点に君臨していた!?
◆幕末の「真の改革者」はみな江戸幕府の側にいた!!
ともすると幕末・明治は、国論が「勤王・佐幕」の2つに割れて、守旧派の幕府が、開明的な 近代主義者の「維新志士」たちによって打倒され、「日本の夜明け」=明治維新を迎えたかの ような、単純図式でとらえられがちです。ですが、このような善悪二元論的対立図式は、話と してはわかりやすいものの、議論を単純化するあまりに歴史の真実の姿を見えなくする弊害を もたらしてきました。
しかも歴史は勝者が描くもので、明治政府によって編まれた「近代日本史」は、江戸時代を 「封建=悪」とし、近代を「文明=善」とする思想を、学校教育を通じて全国民に深く浸透さ せてきました。
そんな「近代」の担い手たちにとって、かつて、もっとも手ごわかった相手が新選組でし た。新選組は、明治政府が「悪」と決めつけた江戸幕府の側に立って、幕府に仇なす勤王の志 士たちこそを「悪」として、次々と切り捨てていきました。
新選組の局長近藤勇は、自己の置かれている政治空間と立場を体系的に理解しており、一介 の浪士から幕閣内で驚異的な出世を遂げた人物です。そんな近藤の作った新選組という組織 を、原資料を丁寧に読み込み、編年形式で追いながら、情報・軍事・組織の面から新たな事実 を明らかにしていきます。
そこには「明治維新」にとって不都合な真実が、数多くみられるはずです。